ロータリーの仕組み
20世紀初頭ポールハリスを含む4名の友人で産声をあげた「ロータリー」が今年100周年を迎えることとなりましたことは、皆さんご存じのことと思います。
そして、私達を含む同志(会員)は現在、世界166ヶ国・31600余クラブ、そして1,211,723名に及んでおります。この大所帯がどの様に運営されているかを過去の歴史をたどりながら紐解いてみました。是非、ご一読ください。
デイビットC・フォワード著の「奉仕の一世紀」より
初期のロータリー本部 その1
初期のロータリー・クラブは互いに独立しており、事務手続きではなく哲学によって結ばれていた。会員資格や会合の頻度は各クラブが定め、ロータリー・クラブの徽章さえ独自にデザインしていた。中央事務局はなく、その必要もなかった。1910年の第一回大会で、全米ロータリー・クラブ連合会が結成されても、短期的にはこの状態はあまり変わらなかった。
しかし、チェスリーR.ペリーを事務長として、連合会はロータリー・クラブと会員の情報資源、情報センターとして発展し始めた。シカゴの貸事務所の借用した机で、チェス・ペリーはたった一人の、しかも無給の働き手として、舞台裏の事務局を築き始めた。
初期のロータリー本部 その2
ロータリーの最初の有給職員はミルドレッド・トロシンである。能力と時間をほぼ使い果たしたペリーが1912年1月にこの女性を採用した。ミルドレッドは1931年に事務局職員に行ったスピーチで、窮屈な職場でクラブ宛の週報を作成するペリーの手伝いをした様子を話している。
1912年4月、サラ・マリーが二人目の職員となり、やや広い事務所に移転した。ペリーが彼女たちを自分のオフィスに呼ぶ時には、ミルドレッドには1回、サラには2回、口笛を吹いて合図したとミルドレッドは述懐している。
初期のロータリー本部 その3
初期の頃、連合会は「ループ」と呼ばれるシカゴ中心街の貸事務所を転々とした。1918年になると、資金節約のためにロータリー本部をシカゴ郊外に移転すべきだとポール・ハリスは確信するようになったが、チェスを始めとする他の関係者を説得することができなかった。
1950年代初頭になると、事務局の職員数が非常に増え、中心地区のビルは借りるにも買うにも高すぎるようになった。RI理事会は恒久的な本部ビルの探索を委託した。コロラド州デンバーを初め、全国で数都市がロータリー本部を迎える名誉に浴したいと熱の入った誘致案を出したが、最終的に理事会はシカゴのすぐ北にあるミシガン湖岸の魅力的な大学都市エバンストン(イリノイ州)を選んだ。
初期のロータリー本部 その4
1953年のメキシコ・シティ大会で、理事会の決定が承認され、ロータリーはエバンストンのリッジ・アベニューとデイビス・ストリートの角に、米貨130万ドル、総面積16,660平米のオフィスビルを建設し始めた。このビルは30年以上ロータリーの拠点であったが、1955年に130名の事務職員が働いた職場は1985年頃には300名が働く職場としては狭く、非能率的な労働環境となった。ロータリーの増築計画許可申請に市政府は厳しい制限を課したため、このプロジェクトはほぼ不可能に思えた。そのため理事会と職員は別の方法を検討し、結果的に信じられないような幸運とタイミングがロータリーに味方した。
初期のロータリー本部 その5
アメリカン・ホスピタル・サプライ社はエバンストン中心部のシャーマン・ストリート1560番地にある18階建ての近代的なビルに国際本部を置いていた。バックスター・インターナショナルとの合併により、同社はこのビルを売却する必要があったため、2,400万ドル(現金の場合はそれ以下)という売値を提示した。
総面積37,160平米オフィス、専用の駐車場とカフェテリアは、ロータリーの必要なスペースを上回るものであったので、余剰スペースは収入源となり、間もなくローンを完済することができた。今日、東にミシガン湖、南にシカゴ高層ビル、北にノースウエスタン大学の木立の多いキャンパスを眺めるワン・ロータリー・センターの屋上にロータリー旗が翻っている。
事務局の職員
ミルフレッド・トロトシンが今日の事務局職員を見たら仰天するであろう。約500名が国際ロータリーとロータリー財団のためにエバンストンで働き、100余名がスイスのチューリッヒ、ブラジルのサンパウロ、日本の東京、韓国のソウル、インドのニューデリー、アルゼンチンのブエノスアイレス、オーストラリア、ニューサウスウェールズ州パラマッタの国際事務局に勤務するほか、イングランド、アルセスターのRIBI本部に18名が勤務している。
事務総長 その1
事務局の責任者である事務総長は国際ロータリーの最高運営責任者であり、RI理事会、ロータリー財団管理委員会の決定した政策を実行する責任をRI理事会に対して負う。また、ロータリー財団の最高財務責任者であり、あらゆるRI委員会と規定審議会と国際会議の幹事である。
ロータリーの最初の百年に10人が事務長あるいは事務総長を努めた。このうち、チェス・ペリー(1910-42)、フィル・ラブジョイ(1942-52)、ジョージ・ミーンズ(1953-72)の3名が最初の64年間にこの職務を務め、今日のロータリアンが当然視する政策と伝統を形作る上で、甚大な役割を果たした。また、ハーバートA.ピグマンは1979年から86年と1993年から95年の2回にわたり事務総長を努め、この任期の間とそれに続く期間にポリオ・プラスの主任を努めている。
事務総長 その2
RI会長に比べて目立たない存在である事務総長だが、影響力のある地位であることに変わりはない。
会長、理事会、委員会は毎年変わるが、事務総長と事務局職員は長期的な視野で重要な問題を検討することができ、ロータリーの政策や手順に継続性を与えることができる。チェス・ペリーのロータリーへの貢献はこれまでの章で詳しく述べてきたが、要約すれば、チェス・ペリーは数々の難所を超えながら浅瀬を旅する初期のロータリーの舵を取り、他のどのロータリアンにもまさるビジョンと一貫性と決意と組織力で、広い水路へとロータリーを導いたのである。
事務総長 その3
ジョージ・ミーンズは後継の事務総長もそれぞれがロータリーに深遠な影響を与えられることを実証した。その指揮の下で、職員はおのおの高水準の事務手続きをとり、与えられた課題を完了することを厳しく義務付けられた。元海軍士官であったジョージは、命令口調で、時間厳守と服装規定を強調した。
事務総長に就任する前、RI理事会はジョージを第2次世界大戦後のインドに派遣し、非生産的な支部を閉鎖させている。その際、帰途につこうとしている彼に、日本に立ち寄って日本のロータリー・クラブを再建する援助ができないか様子を見るよう理事会から指示があった。
日本のRIへの復帰
ミーンズは「やればできる」という性格の通り、横浜港に降りるとただちにダグラス・マッカーサー元帥に面会に行った。米国駐屯軍の隊長として戦後の日本の安定を回復する任務を負っていた元帥は、非常に感銘を受け、出来るだけ早く日本のロータリー・クラブが復興するよう、ミーンズに日本全国を自由に旅行する許可を与えた。
数週間のうちに、彼は東京、福岡、神戸、京都、名古屋、大阪、札幌でクラブを再結成した。
事務局の仕事 その1
今日サービスが重要視される世界中の企業において、従業員は株主全員が実は「企業内にいる顧客」であると捉える考え方が支流になっている。しかし、これは65年前にチェス・ペリーが事務局職員に浸透させた態度であった。
毎日、何千回も職員は「おはようございます。国際ロータリーです。」と相手側がどのような話を始めるか全く見当がつかなくても、明るい声で電話に応える。しかし、何語であっても、話題が何であっても、事務局の誰かが答えられることになっている。
事務局の仕事 その2
職員は、訪問先の町にあるクラブの例会日時を知りたいロータリアン、執筆中のスピーチ原稿に使える事例を探している国際ロータリー役員、また人道的プロジェクトの補助金を探しているクラブなどから電話、書簡、ファックス、Eメールを受け取る。事務局職員はロータリーの方針や手順について情報を提供し、アイディアを共有する情報センターの役割を果たす。ロータリアンとクラブに刊行物、手引書、名簿、ビデオテープ、ロータリー・ウェブサイトの情報を提供する。また、ロータリー財団のプログラムを含め、30余のロータリー・プログラムの広報を担当する職員もいれば、国際会議や大会の手配を担当する職員もいる。
事務局の仕事 その3
ロータリーの国際性を反映して、エバンストン本部の職員も41カ国、56の言語・方言を代表する。エバンストンの職員のうち、百名近くは海外生まれで、222名は英語以外に最低一カ国語が話せる。スイスのチューリッヒにある中央ヨーロッパ事務所の41名のスタッフは合わせて24ヶ国語を話す。
エバンストン本部の翻訳部職員は公式文書をフランス語、スペイン語、ポルトガル語、日本語、韓国語に翻訳して刊行するが、個人宛の手紙やパンフレットははるかに多くの言語に、あるいは言語から翻訳されているチューリッヒ事務所では日常的にフランス語、ドイツ語、イタリア語、スウエーデン後、アラビア語の翻訳を行っている。
民主主義の実践
国によっては、ロータリーは生まれて初めて国民が体験する民主主義であったと言える。ロータリー年度は、7月1日に始まり6月30日に終わり、暦年の年末前に次年度のクラブ、地区、国際ロータリーの役員を決定する選挙が行われる。一般に、ロータリー・クラブは各1名の会長、副会長、幹事、会計と4名の理事(クラブ、職業、社会、国際の4大奉仕部門をそれぞれ担当する)を選出するのが普通である。
地区の分割
1912年のミネソタ州ドゥルースの大会で、クラブを地域別にまとめる必要性を認めた代表議員は、ロータリー世界を8部門に分け、それぞれを副会長が担当することとした。1915年にロータリーは「部門」を「地区」に変更した。それまで部門には地域名(例:カナダ西部)が与えられていたが、地区の名称には番号が用いられた。各地区には当時45~60のクラブが所属しており、今日もこれが平均的な数値である。例えば英国のロンドンはそれだけで1地区を構成し、80余りのクラブがある。その反対に、多くの国や複数の時間帯にまたがる広大な地区もある。第5010地区はカナダのユーコン地方、米国のアラスカ州、そしてウラル山脈に至るロシアのシベリア全域を含む。「私の地区の面積は650万平方マイル。ロシアのクラブに行くには3日かかります。」とワンダj・クックセイ2001-02年度地区ガバナー(アラスカ州ダグラス)は述べた。
地区ガバナー(RI役員)
地区ガバナーは任期一年の国際ロータリー役員で、地区内のクラブが選出する。ガバナーは地区大会と、クラブ会長のための研修セミナーを開催する任務があり、また地区内のクラブを隈なく訪問して各クラブの活動を評価しなければならない。ロータリー本部は1919年に早くも、地区リーダーには優れたリーダーとなるための訓練が必要だと認識していた。この年、ロータリー本部は初めて地区ガバナーの公式な会合を召集した。これは彼らがアイディアを分かち合い、新しいプログラムや手順について学び、ロータリーの親睦と成長を増進する理想的な機会であった。国際審議会は後に国際協議会と改称されたが、このロータリー年度に開催された最も重要な会議の1つであったことは間違いない(第19章の「国際協議会」を参照)。
RI理事会
地区ガバナーの任期を完了したロータリアンは国際ロータリー理事の選考対象となる。現在は18名の理事から成るRI理事会は、永い年月の間に構成人数は変わっても、常にクラブの地理的な分布を反映し、10~12カ国を代表してきた。ロータリーは米国組織ではなく、米国で創設された米国に本部を置く国際組織である。
国際ロータリーは12~18の地区を1つのゾーンとしている、ゾーン別の役員や事務職員はいないが、元、現、次期RI役員を対象にロータリー・ゾーン研究会が毎年開催されている。国際ロータリーは各地理的ゾーンから交替で理事候補を求めるため、1国がRI理事会で多数を占めることは不可能だが、理論的にはロータリー・クラブが1つか2つしかない小国からRI理事が選出されることはありうる。
RI会長
ロータリーで選出される最も高い役職であるRI会長の選考対象となるには、RI理事として1任期を終えていることが必要である。所属クラブの推薦を受けたRI会長候補者の中から、元RI理事で構成される国際的な指名委員会が会長を選出する。
会長エレクトと会長は全世界のロータリーを代表するために、生涯の少なくとも丸2年間を捧げる。理事会の会合に参加していないときは、ロータリーの会議に出席したり、国家元首と会談したり、ロータリーの奉仕プロジェクトを視察したり、財団晩餐会で講演をしたりするために飛行機で移動中のことが多い。
RI会長のテーマ
1949年に米国のロードアイランド州ポータケットのパーシーC・ホジソンRI会長が「我々のチームの目標」を配布し、RI会長がその年度のテーマを作るという伝統が始まった。
始めの頃は多項目から成る複雑な目標が掲げられ、ほとんどの人にとって憶えにくかった。しかしウルグアイ、モンテビデオのホアキン・セラトサ・シビルス1953-54年度会長は「Rotary Is Hope in Action」(訳注:公式な邦訳は存在しない)をテーマとして選び、これは簡潔で、憶えやすく、効果的であった。1957年以降、どの会長もこのパターンに倣っている(RI会長とテーマの一覧については補遺を参照)。
国際大会
年に一度開かれる国際大会は仕事と親睦を合体させたものである。すべてのロータリアンに参加資格があり、各クラブは会員数に応じて一票かそれ以上の議決権を与えられている。選出されたRI会長と全地区ガバナーの承認、事務総長による報告等が通常行われる。
しかし大会のより大きな目的は、世界のロータリアンが出会う場を提供することである。多様な言語、服装、習慣、文化を持つ彼らがロータリーの親睦を謳歌し、社交と余興を楽しむために集まる。
時期クラブ会長に刺激と意欲と情報を与えることに重点が置かれる。大会は世界中で開催され、同じ国で2年連続して開催されてはならないことになっている。
大会と期を同じくして、元RI役員の国際研究会、青少年交換役員の会議、ローターアクト大会、RYLA代表の会議等が開催されている。
規定審議会 その1
1910年以降、重要項目はすべて代表議員が年次大会で審議し、決定していた。まだ組織が小さい間はこれでよかったが、1930年シカゴでの25周年大会に11,000人が出席する頃になると、事が難しくなってきた。実に多くの提案が出され、討議されたため、RI理事会はこの伝統を変える必要性に迫られ、その結果として規定審議会が出来、1933年ボストン大会で、この案が採択され第1回目の規定審議会が1934に開催された。規定審議会はロータリーの「議会」と形容されている。世界の各地区が地区ガバナーとして一任期を完了した者の中から一人の代表議員を選出し、地区内のクラブ代表として審議会に派遣する。この地元レベルのロータリアンが、数名の元役員と共に、ロータリーの定款文書を修正してロータリーの顔を変える力を持つ。規定審議会は決議の形で、RI理事会に方針の勧告を行う。
規定審議会 その2
当初の構想は、規定審議会が年次大会での決議に先立って、案件を審議し、分析する諮問機関となることであった。
1970年アトランタ大会で、規定審議会を諮問機関から立法府へと変える決定が行われた。1974年以来、規定審議会は手順やプログラムの微修正からロータリーの目標の根本的改正に至る数百の案件について審議し、議決するために3年に1度開催されている。RI理事会も、世界で最も小さいロータリー・クラブも同様に審議会に案件を提出することができる。審議会での決定は全て各ロータリー・クラブに提示されなければならないが、今日まで審議会の決定が覆されたことはない。
独自のグループ・RIBI その1
RIBIという頭文字で知られているグレート・ブリテンとアイルランドの国際ロータリーは、世界的なロータリー機関の中で独自のグループを形成している。しばしば誤解されることもあり、RIBIの身分は永年にわたって盛んに論議されてきた。
スチュアート・モローは1911年に初めてロータリーをダブリンに設立した後、速やかにベルファストで、そしてアイル海を越えてスコットランドと北イングランドでもクラブを設立した。モローがこれらのクラブを精力的に結成していた頃、他者の手よってロンドン・ロータリー・クラブは姉妹クラブの結成に乗り出してい
独自のグループ・RIBI その2
1913年10月に、ロンドン、マンチェスター、グラスゴー、エジンバラ、リバプール、ダブリン、ベルファスト、そしてバーミンガムのロータリー・クラブから代表が集まりロータリー運動の発展のためにどのように互いが協力できるかを話し合った。1914年5月4日、これらの自称「創始クラブ」が、英国(当時、アイルランド島全体が含まれた)のロータリー・クラブの間でロータリーの原則と手順を標準化することを目的に英国ロータリー・クラブ連合会(British Association of Rotary Clubs=BARC)を結成した。BARCは国際ロータリー・クラブ連合会には加入しておらず、自治的な独立組織であり、その役員は加盟クラブが選出していた。BARCの名誉幹事トーマス・スティーブンソンは、「シカゴから遠距離にある英国のロータリーには、英国の流儀が必要であり、辺り障りのないように言うことができるとすれば、英国の行政機関が必要である。」
独自のグループ・RIBI その3
BARCの結成から2カ月経たずして、ヨーロッパは戦火の渦の中にあった。当初から米国との連絡は難しかったが、戦時中はシカゴのロータリー本部と英国のクラブや会員の間で短時間に連絡を取り続けることはほとんど不可能に近かった。
戦争にもかかわらず、英国のロータリーは成長し続け、シカゴと接触が稀であったため、英国のクラブはBARCへの依存を深め、ロータリーの援助源、行政機関としてのBARC支持の姿勢を固めていった。英国の連合会は加盟クラブに国際ロータリー・クラブ連合会にも加盟するよう奨励し、ほとんどのクラブはそうしたが、戦争のため、米国のロータリアンには英国のロータリアンに国際的なロータリー運動に加わったと実感させる術がなかった。
独自のグループ・RIBI その4
1918年に戦争が終わると、多くの米国のロータリアンは英国のクラブがシカゴに本拠を置く国際ロータリー・クラブ連合会(1922年に国際ロータリーと改称)を受け入れるものと考えていた。
しかし、英国のクラブは自分たちにはすでに能率的な連合会があり、終戦時にはBARCに30クラブが参加しており、6地区にまとめられていた。その後数年にわたり、国際ロータリーという1つの行政機関の下に全てのロータリー・クラブが帰属するよう、BARCを禁ずるべきだと強く主張する者も一部にあったが、1921年エジンバラ大会でひとまず解決を見た。
独自のグループ・RIBI その5
エジンバラ大会で代表議員は、一国に25以上のクラブが存在する場合は、その国のクラブは行政単位となる権限を国際大会に申し込むことができると決定した。英国とアイルランドのクラブはただちに地方機関として認識されることを申請した。彼らは1922年ロサンゼルス大会に定款・細則案を提出し、「国際ロータリー英国・アイルランド連合会」という名称を選び、これが採択された。
しかし1927年にベルギーのオステンド大会で、これ以上の地方機関や行政機関の承認を許す条項が排除され、RIBIは唯一の下位機関となった。RIBIは例外的存在であるが、今日も継続している。
独自のグループ・RIBI その6
1964年、RIBIの地方行政単位としての地位に再び強い反対が唱えられた。この問題はカナダ・トロントの規定審議会で激しく論争された。主な懸念はRIBIが異なる役員や財務の仕組みの前例となり、他の地域も行政単位の地位を求めるという脅威であった。1966年に開催された次回規定審議会で、ロータリー流の友情を実演する形で事が解決した。RIBIは地区ガバナーを始めとする他の運営の仕組みについてRIの肩書きを採用し、RIBIがRIのために行う運営業務への報酬として、RI会費が共有されることになった。
英国では、理事会ではなくクラブ審議会がクラブの運営機関であり、地区審議会がガバナーによる地区の運営を援助する仕組みになっている。各地区ガバナーは選出された会計、副会長、会長と共にRIBIの運営機関である総務会を構成する。RIBIは2つのRIゾーンに別れ、ロータリー世界の他地区と同様に、RI理事会のメンバーを選出する資格がある。元RIBI会長4名がこれまでRI会長に選出されている。
まとめ
奉仕の一世紀を通し、ロータリーをめぐる世界は大きく変化した。しかし、1905年にロータリーのパワーが地元クラブにあったのと同様に、今日でもそうである。「ロータリーはクラブから切り離された別個のものではなく、クラブの集合体である。さらに包括的な意味で、国際ロータリーはクラブを構成するロータリアンである。」とチェス・ペリ-が1957年に記している。ペリーの認識の通り、ロータリーの河の強い流れをつくり、それに乗って進んで行くのが各ロータリアンであり、クラブである。
抜粋文献 「奉仕の一世紀」デェイビットC.フォワード著 日本語訳監修 菅野多利雄
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